これまでも「言葉のあたりまえ体操問題」や「小枝的小技不要論」「何も言ってない言葉たち問題」「揉み手構文と白文字系文学」「哀しきイクメン・イケダン問題」など、幾度となく指摘してきたメディアの劣化だが、その構造はシンプルだ。インターネット、とりわけSNSの普及により国民全員がメディア化した結果、メディアの特権的立場が失われ、儲からなくなってしまった結果優秀な人材が入ってこなくなったからである。メディアとしての意志を持たず、単なるサラリーマン気質で生み出されるコンテンツは、読めば読むほど毎日の気持ちのハリを奪い、家事のヤル気を削ぎ、料理の献立を考えるのを憂鬱にし、悩まなくてもいい心配の種を頼みもしないのにいくつも教えてくれる。
欠落と埋め合わせのマッチポンプ
メディアの編集にもはや意志はないが、その裏には巨大な意志がある。編集記事がネガティブな考え方をねじ込む理由、それはその合い間に挟まれる広告で紹介される商品を売るためである。編集記事が気持ちのお膳立てをしておいて、広告で回収する。要は、メディアまるごと広告なのだ。
編集記事が気持ちの欠落を生み、広告によってそれを埋め合わせる商品・サービスを紹介する。この構造を理解すれば、メディアの論調がネガティブバイアスに傾くことは必然なことだとわかる。冷静に考えてみてほしい。そんなにおいしいものを作ってみんなで食べることが憂鬱だろうか(それ純粋なしあわせなんじゃない?)。こんなに家電が揃っていてまだ「家事に追われる」だろうか(冷静に考えたらそんなことないよね)。いつ自分が死んでもいいように貯金を全部保険に回すことが愛だろうか(そのお金で今を楽しむ方が大事では?あるいは特定の〇〇ではなく「何が起きても大丈夫なように」資産を増やすほうが大事では?)。
口に入れるものを吟味するように、目や耳に入れるものも吟味する。
経済の枠組みにのっかっている以上、あらゆる情報はプロパガンダと考えるべきだ。我々はみな洗脳社会に生きている。それ自体が悪いと言いたいのではない。それを空気のようにココロに取り込んでしまうことが問題なのだ。学校でくだらない重箱の隅のような知識を教える前に、「メディアリテラシー」とやらを必修にした方がいいのではないか。よく聞く言葉だが、ちゃんと習った人いないのではないか。
今テキトーに日本史の教科書を開いたら「荘園では成功といって、資材を出して朝廷の儀式や寺社の造営などを助け、その代償として国司などの官職を得ることや、同じ国の国司に再任される重任も行われるようになった。(出典:詳説 日本史研究、P.111、山川出版社)」そうだが、どーでもええわそんなこと。太字の「成功(じょうごうと読むらしいがそれも知らんがな)」や「重任(ちょうにん)」は太字だから重要ってことなんだろうが、それそんなに重要か?こんなことを大事と言われて育ったら、何が大事なのかわからない大人になるのは当然だ。
プロパガンダを真に受けて、すぐに〇〇疲れして「がんばりすぎなくていいんだ」と自分を赦して解放して時短して作り置きしてレンチンして・・・おいおいホンマにそれで大丈夫かいな?あらゆるものに〇〇疲れする「お疲れモード」になったら、人生100年時代しんどいぞ。構造的にネガティブバイアスのかかるメディアの言うことは「一生疲れとけバカ」と一切無視して、自分のプロパガンダで生きる。ナンバーワンとかオンリーワンとかどうでもいい。自分の尺度でシャキっとパリっと毎日生きれていれば、それがしあわせなんじゃないでしょうか。