幸せは、心ひとつの置きどころ。我々はみな、ソファという玉座の上の王様なのだ。

岡田斗司夫さんの考え方で面白いなと思っているのが「自分を王様だと仮定する」だ。私たちが毎日食べている食事は江戸時代の殿様よりよっぽどおいしいし鮮度もよい。枕も低反発だし(殿様の枕は高すぎて疲れそう。あんたが一番頭が高いんじゃ)、室温もエアコンで快適だ。さらに隣国から敵が攻めてくる心配もなければ、かわいい娘を政略結婚で差し出す必要もない。

我々はみな、ソファという玉座の上の王様なのだ。

この観点からみれば、たとえ肩書が平社員であろうと仕事がなかろうと、現代日本に生まれた限り我々はみなソファという玉座の上の王様なのだ。まさに退屈な終わりなき日常のパーセプションを更新し、知った人を嬉しくさせる素晴らしい視点だと思う。

たとえば新聞やテレビのニュースは自分が寝ている間に家臣どもが必死に諜報活動で集めて、徹夜で(たぶん)わかりやすく編集してくれた「報告」である。朝のニュースだけでも5種類も6種類もあって到底全部はチェックしきれない(家臣よすまぬ)。しかも王様だから当然無料である

私が王様であることをまざまざと実感するのは、夜ソファーに腰掛けて金色のシュワっとする飲み物を飲みながらドキュメンタリー番組を見る時である。45分の番組を作るのに、民放なら100時間(たぶん)、NHKなら500時間(たぶん)カメラを回し、その中から選びに選んだシーンを分かりやすくつなげる。当たり前の話だが、500時間のVTRから使うシーンを選ぶのには500時間以上観なければならない。作業はそこで終わらない。さらに気分の盛り上がるBGMをのせ、シブいナレーションをつける。その全行程と情報集約の価値を想像する時、ああ王様でよかったとつくづく思う

幸せは、心ひとつの置きどころ。

悟りとは、何も山に籠って座禅を組んで得るものではない。むしろ日常の中のこうした「捉えなおし」を1つではなくいくつも積み重ねていくその「過程」のことを指す言葉なのではないか。ソファに座ってテレビを見ながら退屈しか覚えないとすれば、それはこの世界が退屈なのではなく、あなたが退屈な人間なだけだ。そして幸いなことには、この世界を変えるよりあなた自身を変える方がよっぽどお手軽カンタンである(しかもプチプラ!)。

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