一瞥して一蹴、の謎。企画の良しあしを瞬間で判断できるカラクリ

駆け出しの広告マンだった頃、私もコピーライター養成講座なるものに通った。1クラスに120人、広告の道を志す若者(少なくとも半年で40万円を支払うほどには本気)が集って毎週課題を提出し、それを第一線のコピーライターが評価する。電通や博報堂の若手社員も含むそれだけの人間の120案であり、それっぽいコピーもあるのだが、そのほとんどは箸にも棒にも掛からない。その場でパッと見ただけでよく評価ができるものだ、と当時は不思議な気持ちで見ていた。

文字は書いてあるが、「何も言ってない」言葉。

その言葉が箸にも棒にも掛からないかどうかは、まず「言うべきこと」を適切に発見できているかが第一歩だ。それなくして「それっぽい」言葉を並べたところで、そのコピーは機能しない。それを講師はよく「このコピーは、何も言ってないね」と評したものだ。たとえ4万字書こうが、何も言ってないものは何も言ってないのだ。

あれから15年ほど経ち、いまや私も部下のコピーを見たり編集会議で企画をその場でフィードバックすることがあるが、それをオブラートに包んで「この企画は間違ってないけど、これが答えとはいい切れないね」と戻すようにしている。たまに「間違ってない」だけ受け取るシアワセ者もいるが。

編集の企画においては「ネタ×切り口」を見てジャッジしていく。「受け手」「社会」「自メディア」という3つの文脈の交点を押さえられていればそれは記事にする意義があるといえるし、逆に他メディアでも言えそうな内容だったり、去年出しても違和感がない内容なら少なくとも「答え」ではないということだ。

情報が溢れる世の中に、意味の総量は減少している。

総務省の情報流通センサス調査の見解を持ち出すまでもなく、現代は情報が溢れている。しかしそのほとんどはやはり「何も言ってない」。Twitterを開けば「ビジネスは量が大事です」「相手に寄り添うことが大事です」「人となりが全て」など、あまりに当たり前すぎる内容のツイートに溢れている。情報が溢れかえる中、意味の総量は逆に減少している。ということは、どれだけ情報がビッグバンしようが言うべきことをちゃんと言い続けられるメディアであれば存在意義もあるのではないか。そんな想いで、ボチボチコンテンツを発信していく所存であります。

 

移住・二拠点生活で叶えるニューノーマルな働き方・生き方
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