現代はデジタルのもたらす「最適化」の行き着く先が、逆に「不快」であるという「最適化のパラドックス」を抱える。動画や音楽サブスクのコンテンツレコメンドや SNSのフィードなど、世の中の隅々まで最適化しつくされた結果、人々は刺激の同質化による退屈さやウンザリ感による「文明酔い」のような症状に見舞われ、デジタルデトックスを志向する。
物理から切り離されたデジタルによる不調を癒すのは、物理と密接なアナログ。。レコードやカセットテープなどに癒される人々が増えているのがその証左である。スマホ疲れやSNS疲れの果てにデジタルデトックスし、地に足をつけて深呼吸することで生気を取り戻す。一般的にタイパ重視で、”失敗したくない”世代と思われているZ世代は現在、むしろ最適化されていない「余白」からもたらされる偶発性や、ガチャ感による新たな自分の価値観の発見こそがパフォーマンスだと感じるようになっている。
ただ、さすがわが国の未来を担う最後の希望=Z世代は一筋縄ではいかない。たとえば街選びひとつとっても「適度に便利で、効率よく偶発性に出くわせる場所」を求めるという・・「偶発性効率」って、そもそも矛盾してるような気もするのだが・・。
ともあれ、行き過ぎた最適化が行き着いた先に、着々と育ってきている新たなニーズがある。それが「偶発性欲求」だ。
最適化のパラドックスが育てた「偶発性欲求」
偶発性欲求は今にはじまったものではなく、そもそも人間に備わっているものだ。人間が本能的に偶発性を欲する理由は、それが自らの内面に多様性をもたらすから。多様性はリスクヘッジになると同時に創造性の源泉にもなる。日本はモノカルチャー社会ではあるものの、一人の人間はカルチャーそのものなので、他者との交際はカルチャーミックスを生む。互いに多様性を強化し合うこと、それはすなわち人間的な成長を意味する。
偶発性に身を委ねたい、という隠れた願望は行動経済学の「決定回避の法則」にも下支えされている。ジャムの法則としても知られる通り、24種類のジャムを用意したら60%が試食し、そのうち3%しか購入しないが、6種類に絞ると試食率は40%に落ちるがそのうち30%が購入するというもの。最終的な購買の実数では10倍もの差がつく。
そもそもモノ余り社会になったのは、たかだかここ50年のこと。人間にとって選びきれないほど多様な選択肢があること自体が不自然なことで、選択疲れも一種の文明酔いといえる。選択肢をシンプルにすることや、選択の理由を明確にするのはそれ自体が良質なサービスであり、優れたUXといえるのだ。
偶発性欲求に刺すキャンペーン事例
事例①:「気分」でお酒を注文する。サントリー「Bar グラスとコトバ」
現代人は選択疲れによって結局は同じものばかり選ぶことになるので、せっかくの選択肢の豊かさを享受できていない。だから偶発性が新たな世界の扉を開く鍵となる。酒の世界でエンカウンタリングな発見をもたらす試みが、サントリーの期間限定店舗「Bar グラスとコトバ」だ。具体的なドリンク名を注文するのではなく、「明日から本気出す」「後輩が優秀過ぎてつらい」など今の自分の気持ちとグラスをメニューから選んで注文するのだ。バーテンダーはその気分&グラスに合った酒やカクテルをサーブするので、未知の酒に出会える。そして、世界が広がる。
そもそもBARとはエンカウンタリングな場であるが、このBARは新たな酒との偶発性をより強めた体験を提供している。メニューに書いてあるだけでは気にならないものでも、バーテンダーに勧められると飲んでみたくなることは多い。だがお店がある程度空いている状況でないとそういうやりとりはできないので、BARのカウンターに座ればいつでも新たな酒に出会えるというわけでもない。その意味では非常に「偶発性効率」に優れた店といえる。
事例②:マクドナルドの「ランダムマック」
Twitter(現X)には、生活者のホンネ投稿が溢れているので「インサイトの検索エンジン」として使える。「マクドナルドの注文って、みんな固定化しているんじゃないか?」という仮説をもとに生まれた企画が「ランダムマック」だ。この仮説を検証するのに「マック おすすめ」などでSNS上を検索すると、他人にオススメを聞くユーザーが多数確認されたという。投稿につくレスも併せて見ることで、そのトピックに関する温度感も掴めるという。
ランダムマックは、デジタルサイネージアワード2023でグランプリを獲得した。2022年4月、コロナによる外食制限下の閉塞感を打ち破るキャンペーンとして投入され「動き続けるQRコード」など新鮮なUXも話題となって、2週間で200万人超が参加したという。
事例③:オイシックスの「ミールキット」
フード系のサブスクも、偶発性欲求を満たすサービスといえる。たとえばオイシックスのミールキットは調理の手間を省きつつ、意外なメニューを知れるオイシさもある。簡易的な調理を行い、それを実食するという一連の体験によって自宅の食卓に新たなレパートリーが生まれるのだ。
また野菜の宅配も同様に、偶発性を愉しめるサービス設計となっている。定番の野菜の中に混ざって届く知らない野菜。それはこの野菜をいかに食べるか?を考える「お題」になる。問題発見力を外注することで、食の幅をどんどん拡げていけるサービスといえる。
最適化時代の生き方を「最適化」する。
何もかも自分向きのものになった結果生じる退屈さや無重力感、オファー疲れ。AIはこの「最適化のパラドックス」を最適化できるのだろうか。ニンゲンなんでも「ほどほど」が良いし「たまには気分を変えて」は必要。また偶発的なエンカウンターから自分の新たなドーパミンポイントを発見するのは人生の醍醐味だ。
刈り取りバナーの最適化の先は、慢性的なオファー疲れにつながる。人の気持ちがわからないAIは無制限に最適化を進めるので、スマホを開くたびにオファーが無限に続いていく。そこで必要になるのはこれまでの最適化の延長線上から外れた切り口の提示である。たとえばそれは気づきを伴うクリエイティブだったりするが、そこにこれからの人間の活躍の余地がある。
最適化時代の生き方の「最適化」戦略は、人間性を思い切り愉しむことに尽きる。そもそも人間というのは偶発性のカタマリであって、それを一番カジュアルに愉しめるのが会話だ。言葉というカードを自在に切り合うセッションは、お互いの全人生を持ちネタにした連想ゲームでもある。ほとんどの会話に結論やNAはないが、ジャズのアドリブ競演と同じくセッションする時間そのものが価値なのである。
長い人生を歩んでいく際には、偶発性と上手く付き合うことを考えたい。たとえば未来の構想を練るときは、今の自分が想定し得ることの限界を知り、一定の偶発性を織り込むべき。おそらく達成した時に見える景色の半分以上は現段階では見えておらず、試行錯誤する道中で偶然見つけたものになるはず。だから方向性だけ決めたら、あとは予断を持たずに偶発的なエンカウンターを愉しむことだ。
こうした発想は、毎日の暮らしの中にも織り込むことで日常にスパイスを与えてくれる。たとえばいつもの区間を、いつもと違う方法で移動する。それだけで街の見え方も気分も変わる。地下鉄ではなくバスで移動してみると街の様子がよく見えるし、歩くと小道に詳しくなれる。歩くと時間がかかるように思うが、乗り物に乗る時間と差し引きしてみれば実はそこまで違いはない。東京ビッグサイトのイベント帰りはゆりかもめではなく、船に乗って帰ってみる。ただの平日の中で、思わぬ旅気分に浸れる。
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