風呂の中で、空の向こうの、宇宙の向こうの、その先に広がる無限の空間のことを思うとき、いつも僕は自分の内なる風呂の栓を誤って抜いてしまったような感覚に襲われた。
科学は日々この世界の謎を解明し、それを体系立てて大量に文明人にインプットする。しかし「僕たちはなぜ生きるのか?」という根源の謎だけは、いまだ解明されていない。僕自身、酒という愉快な相棒に出会うまではのたうちまわって考えたものだ。
旧約聖書に「神は自らに似せて人をつくった」という一節がある。最近になって、あながちこれは間違っていないのではと思いはじめた。私の仮説はこうだ。
神は、ネタバレをめっちゃ嫌がる性格
あらゆることが解明されているのに、その一番根っこの問題だけが絶対わからないようになっている理由は一つしか考えられない。この世界の設計者は、ネタバレを恐れているのだ。「それわかったら続き観んでええやん」と言われたら作り手として終わりなのだ。天にまします我らの神よ、その気持ち、わかるぞ。
ただその文脈でいうと、ネタバレは避けつつも伏線は死ぬほど張りまくっている。どんな人も取り残さないように、常に面白ポイントを散りばめつつ、単純なパターンで構成している。たぶん心配性なんだな。
万象は流転する(パンタ・レイ)の言葉の通り、生命は巡り、季節も巡る。冬に枯れ落ちた葉が春にまた新たに芽吹くように。夕陽が落ちて宵闇が空を覆っても、必ず翌朝は真新しい一日がやってくるように。ここから素直に類推するに「死んだら全部おしまい」という設定になっている確率は極めて低いように思われる。
作品の解釈は、受け手に委ねられる。
あらゆるアートの共通点は、その意匠に関しては100%作り手に委ねられる。と同時にその解釈については、100%受け手に委ねられるということだ。広告(テレビのコマーシャルとか)はその真逆であるが、僕たちの人生がアートかコマーシャルかは考えるまでもない。
さて受け手である僕たちに委ねられている部分、それは冒頭のこの世界で唯一解明されていない千古の謎「僕たちはなぜ生きるのか?」につながる。それは、人生を通して自分で解釈してください、ということだ。作家の宇野千代の最期の言葉は「あー、おもしろかった」だったそうだ。これほどの感想があるだろうか。そして自分の感想もそうありたいと思う。「あー、おもしろかった」と言うために、僕は今日を生き、そして明日を迎える。