人はなぜ石を積むのか。古来の人が実体化させたかったものとは

旅先へ行くと、日常では考えもつかなかったような視点が得られることが多い。私はそのために旅に行くといっても過言ではない。その要因のひとつには「日常からの離陸」もあるだろう。今はそうでもないが、10年ほど前までは旅先では名実ともにオフラインになることができ、それによって解放された脳内メモリが建設的な思考に使われ始める。また、日常から物理的距離をとることで思考の抽象度が増し、よりクリエイティブな発想がしやすくなるという事実は心理学の「CLT理論」として知られている。今回は、数ある過去の旅から、印象的なパーセプションをひとつ紹介したい。

人はなぜ石を積むのか

「地雷を踏んだらサヨウナラ」という写真家の一ノ瀬泰三の人生を描いた映画が好きで、ある時カンボジアのアンコールワット遺跡群に一週間ほど滞在した時のことだ。あの周辺はアンコールワットはもちろん、バイヨン寺院を中核とする城都のアンコールトムやラピュタのモチーフとなったといわれる完全な廃墟のベンメリアなど、遺跡だらけである。

来る日も来る日も仏教をモチーフとする遺跡巡りをするうちに、ふと「なぜこんなに狂ったように石を積んだのだろうか」という疑問が湧いてきた。そしてその答えは、最後の日にもう一度アンコールワットを観ている間に訪れた。

人は、自らの信念を証明するために石を積む。

おそらくこれを造った人は、自分の人生の中心をなす「仏教」の世界を信じたかったのだ。仏教の教えを本当(リアル)なものであることを証明するために、石を積み、そこに石仏を顕すことで現実化(リアライズ)させようとしたのだ。「石を積む」という行為は、アタマの中にある概念を一つずつ地上に現実化していくということなのだ。

信仰とは孤独なものであり、不安も伴う。なぜなら仏もキリストもアラーも、あらゆる神は「問いかけても応えてくれない存在」だからだ。だから古来より人々は石を積み、神殿を築き、宗教画を描き、物語を創作した。この世界に、確かに神が存在することを証明するために。偶像崇拝を禁じているキリスト教でさえその想いは抑えきれなかったようで、各地の教会の十字架にはイエス像が掲げられている。

現代人が画を描いたり、事業を興したりすることもおそらくは同じ心理作用からきているのではないか。自らの信念、それは自らの存在そのものとつながっている。信じるものを日々具現化していくことで、私たちはこの地上に確かに存在したということを証明するのである。私もまた、現実化のかわりに言語化を、石のかわりにパーセプションを積み重ねて生きていく。

人生の証明問題
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