会社員時代、多くの旅をした。旅の目的は「移動すること」そのものにあった。電車が走り出すと、自分を日々縛り付けている場から1mずつ離れていく。旅とは「現状」から離れ、「未来」へと至る象徴的な行為であった。もちろん終わればまた日常に戻るのだが、自分の内面で何かを進めるプロセスだった。
目的地は、車窓です。
以前、秋旅のコピーで「目的地は、車窓です」と書いたが、僕の場合はいつだって目的地は車窓にあった。日常から物理的に離脱していくことを目視で確認しながら、自分を解放していく。解放されてできた心理的余白に、まだ見ぬ未来の構想を描いていく。今の暮らしは、この「旅先の夢の先」にある。
目的が「移動そのもの」だから、すぐに着いてしまう新幹線ではつまらない。鈍行でゆっくりじっくり移動し、気が向いたら途中下車。目的地以外、宿も何も決めない。宿がなければ帰る。この「何も決めない」ということが、全てが契約で縛られている会社員時代の日常に対する最大の癒しの処方箋だったのだ。
尊敬する哲人は「人生は、心ひとつの置きどころ」と言ったが、流れゆく車窓こそが僕にとっては心躍るコンテンツだった。東京 – 大阪の移動なら東西600km×視野が届くまでぶんの情報量がある。流れゆく一軒一軒を観ながら「あの農耕具置き忘れかな」とか「この辺の子たち、どうやって通学するの?」などと想像を巡らせる。
海外旅行の場合はもっと切実だ。ベトナムやインドの田舎の車窓から見えるこのオバサン、多分一生自分の人生と交錯することはない。ただ一度の、それも一瞬のすれ違い。なんだかとても強くて、元気で。そんな人たちのひとつひとつの人生を想像していくと、少なくとも本など読んでいる場合ではなくなる。
一度だけ、滞在型の旅をした。沖縄の海を昼間から日が暮れるまでホテルのビーチで1週間観続けた。それでわかった。海はどれだけ観ても、飽きない。それからまもなく、会社員を辞めた。「旅先の夢の先」の暮らしでは、そこからの物理的逃避ではなく、スパイスとしての近郊への滞在型の旅になるだろう。
旅先の夢の先の「旅」がはじまる。
ライフステージが変わり、人生にとっての「旅」の存在意義が変わる。それは自分にとっての、新しい「旅」が始まるということだ。新しい暮らしが始まると、新しい旅も始まる。そう考えると、なんだかワクワクする。
旅先へ行くと、日常では考えもつかなかったような視点が得られることが多い。私はそのために旅に行くといっても過言ではない。その要因のひとつには「日常からの離陸」もあるだろう。今はそうでもないが、10年ほど前までは旅先では名実ともにオフラインにな[…]
旅先で新しい街を訪れた時、私は必ずその街を歩き回る。ひとつひとつの街角を自分の足で踏みしめて歩くことで、少しずつその街のことを知っていくのだ。ホテルと観光地の往復では、その街についての記憶は何も残らない。私にとって、自分の足で街を歩くことは[…]