旅先で新しい街を訪れた時、私は必ずその街を歩き回る。ひとつひとつの街角を自分の足で踏みしめて歩くことで、少しずつその街のことを知っていくのだ。ホテルと観光地の往復では、その街についての記憶は何も残らない。私にとって、自分の足で街を歩くことは生きることと同義と言っても過言ではない。その場所で、その街で生きていることを確認するために、一歩ずつ歩んでいく。これは16年間過ごした東京でも同じだ。私は毎日歩き続けた。恐らく江戸の町人の平均歩数を遥かに超えていたのではなかろうか。
私が歩き出したきっかけは社会人になって5年ほど経った時のこと。広告代理店は朝10時から夜25時まで、客先訪問や社内会議を除けばひたすらPCの画面に向かう生活だ。大学時代に2.0を誇った私の視力は、0.4まで落ちた。このまま放置すれば、メガネやコンタクトレンズと一生付き合う人生になる。そういう岐路に立った時、私は毎度毅然と、いや猛然と行動を開始する性質らしい。そこから夜21時までに仕事が終われば、夜の東京の街を歩いて帰ることにしたのだ。当時は家に帰れる日はだいたい22時前後に会社を出て23時~25時に夕食をとって寝るという生活だったから、生活リズムが狂うことはなかった。
最初は銀座や虎ノ門から、東京メトロ銀座線の真上をひたすら歩いて、渋谷までざっと7km100分だ。雨が降ってきたら最寄りの駅から銀座線に乗ってしまえばいい。銀座から外堀通りを抜けて赤坂見附に向かう。赤坂の街の提灯に心惹かれながら、青山通りへ入る。抜けのいい青山通りの散歩も気持ちのいいものだった。
普段地下鉄やタクシーでしか移動しなかった東京の街を、自分の足で横断するのはなかなか楽しかった。なるべく遠くのビルの灯りを見ながら視野を伸ばすようにしつつ、歩いていくのは気持ちがいい。あのまま家と地下鉄と会社の往復を続けていれば、あやうくモグラになってしまうところであった。
代理店から事業会社へ移ると、だいたい20時には仕事が終わるため、夜の散歩はほぼ毎日の日課となった。最初はDeNAのある渋谷ヒカリエから下北沢への道4km60分だ。渋谷の道玄坂をのぼったら、そのまま代々木八幡まで抜けてしまう。そして井の頭通りを歩いて帰る。青山通り同様、井の頭通りの抜けの良さも好きだった。
原稿仕事が多く、終業時には肩がカチコチになっていたが、腕を1時間ふって歩くと随分マシになった。そういえばこの頃から通勤でカバンを持つのをやめてしまった。よく考えたら、家に帰って、翌日会社に来るまでにカバンを開くことなどほぼないことに気づいたからだ。これでは2kgの重りをただ運んでいるだけではないか。ある日思いついて手ブラ通勤をやってみると、これがまた気分がいい。通勤時、周りが全員ビジネスバッグを抱えて通勤している中、風来坊のように私服の手ブラでプラプラと通勤するのはなんだか自由な気がしたものだ。
その次のカカクコムは恵比寿にオフィスがあったため、恵比寿から中目黒を抜けて池尻大橋まで出て、そこのライフで買い物をして北沢緑道を歩いて帰る。これも4km60分コースだ。その日の気分に合わせて目黒川沿いを歩いたり山手通りを歩いたり、中目黒あたりの風景は大好きだった。そこからの北沢緑道もまたいい。夜でもやはり緑道を歩くのは気持ちがいいものだ。
私にとって生きるということは、その時その時の街を歩きつくすということだった。夜風でアタマを冷やしながら、翌日書く内容を構想するのは無性に楽しいものだった。デスクの上には絶対やってこなかったような発想が夜空の向こうからふっと降ってくる瞬間がある。夜道でキャッチしたひらめきをいくつか組み合わせながら、一つの企画を完成させていく。一歩ずつ歩みを進めながら、私は自分の人生の歩みも確実に進めていたのだ。
ゴールの下北沢の街に差し掛かると、にわかにお祭り感が出てくるので、そのまま盛り上がってシモキタの焼き鳥屋「駅」や「源八」に突入するのも楽しかった。飲んでいるとコピーライターの川見君や編集長の下崎さんが合流したり。会社はいくつか変わったが、その間一緒に飲む登場人物はあまり変わらなかったし、いつもカシコオモシロイ話ができた。しあわせなことだ。
銀座、恵比寿、渋谷、そして下北沢。過ごした全ての街の、あらゆる路地が私の記憶の中に立体的に生きている。とてつもない情報量であろう。そして今はまた、広大な山と海の中を歩いている。朝は別荘地内を30分、夕方は山を越えて隣の農村までの道を90分。毎日歩いても、やはり飽きない。趣味はこれといってないと思っていたが、これはもう立派な趣味といっていいのかもしれない。ちなみに今は視力は1.0程度にまで回復している。ありがたいことだ。