聖書というのは割と正直で、時の教皇によって何度か改ざんが加えられているものの、イエスの人間的な弱さや迷いも隠すことなく記されている。それが逆にイエスの実在性を信じる拠りどころにもなっていたりするのだろう。
たとえばゴルゴダの丘で十字架にかけられたイエスは、死の直前に「エリ エリ レマ サバクダニ(神よ、なぜ私を見捨てるのか)」と叫ぶ。これはイエスが絶対神であるヤハウエの子である、というキリスト教の考え方からするとかなり矛盾した言動である。クリスチャンは「これは祈りの定型句を述べたにすぎない」という「解釈」によってこの矛盾を飲み込むのだろうし、私のような部外者から見るとこれだけ矛盾を内包しつつも、たくましく発展している力強さに感心してしまう。
イエスの実像
私の個人的な見解としては、イエスというのは映画に登場する美男子イエス以上にイケメンで愉快な兄ちゃんだったのではないかと思っている。聖書にも「あいつは酒飲みだ」と陰口をたたかれるイエスが出てくるし、何よりイエスは当意即妙のたとえ話の天才だ。「からし種」のお題を出したらIPPONグランプリでも軽く優勝するだろう。歴史に「たら・れば」は無いというが、もし私がもう2,000年ほど早く生まれていたら、一度彼をZOOM飲みに誘ったに違いない。
また「一生砂糖水を売るのか、俺と一緒に世界を変えるかどうする?」とスティーブジョブズが言ったのは有名な話だが、イエスも「一生魚釣りでいいのか。俺と一緒に人間を釣る漁師にならないか」と最初の弟子ペテロを口説いた。ここぞという時にはバシッとキメる。愉快な一面とオトコマエの一面を併せ持った、それこそカリスマだったのだろう。
こうなると、聖書に記されている数々の軌跡のエピソードにも納得がいく。歩けなくなった病人がイエスの前で歩き出したり、瀕死の重病人が元気になったり。キムタクやブラッドピットが突然目の前に現れたら、そりゃあビックリして病を忘れるオバサンも中にはいるだろう。全部が全部ではなく、そういう人もいたという話として、事実なのだろう。
キリスト教をベースに編み出した「桜島理論」
数々ある「聖書のほつれ」の中でも、最もリアルなほつれのエピソードがある。故郷の町ナザレを出て、山で修行しヨハネに神の子認定されたイエスは、それから数々の奇跡を起こしカリスマとなる。その足で故郷のナザレに凱旋したイエスの様子を聖書は「(奇跡のチカラを)何もお示しになれなかった」と書いてある。「お示しにならなかった」ではなく「なれなかった」だ。旧知の存在であるイエスは、ナザレの民にとってはただの大工の子だったのだ。
鹿児島に旅行に行った時、これと同じような現象に出会った。鹿児島の街からフェリーに乗って桜島へ向かう。雄大な桜島はどんどん大きく迫ってくる。有名な船内のうどんを食べている間に船は着く。下船すると、どこにも桜島は見えない。いかに偉大な存在であっても、近すぎるとその偉大さが分からないということがあるのだ。これを私は桜島理論と名付け、名付けたまま満足して今日まで忘れてしまっていた。